MGとはイギリス製の車です。モーリスガレージの略称で、正確に言うと車種の名前と言うより、車のメーカーの名前です。後にブリティッシュライトウェイトスポーツと呼ばれる、軽排気量のスポーツカーです。同じ仲間にオートバイメーカーが作ったトライアンフがあります。当時、イギリスのスポーツカーではオースティンヒーレーが有名でした。ビッグヒーレーと呼ばれた大排気量のスポーツカーで、庶民には高値の花だったそうです。イギリス人の貴族のお金持ちは、田舎にもお家を持っていました。お金持ちの馬屋には、馬に代わりヒーレーのようなスポーツカーが入り、馬丁は車のメンテ係になりました。今でも助手席と言う当時の名残の言葉が残っています。高値の花であったオープンスポーツカーを、若い一般庶民でも買えるように、との営業戦略から生まれた車がMGです。第二次大戦後、初めての流線型のモデルとして作られたのがMG-Aという車種です。それまでの箱形MGは、シャーシの一部やフレームにも木が使われていましたが、MG-A以降は金属製になります。しかし、床板は合板でした。
さて、私が医学部の学生時代、MGにあこがれました。176号線服部のハナテンにベージュ色のMG-Bが置いてありました。アルバイトで貯めたお金をある程度は持っていたので、母親に打診。「アホー、こんな車に乗ってみー、どう見てもエエとこのアホボンにしか見えへん、こんな車は40すぎて、どこから見ても自分の甲斐性で買うたと思われるようになってから買い」と一蹴にされました。
それから、二十数年の月日が流れました。渓流釣りにと買ったランドクルーザーも12年になり、ボディーが錆びて穴が開いてきました。そろそろ、買い替えですが、四輪駆動車もはやりすぎて、いやになりました。どうして、泥道用の超でかいタイヤと猛獣よけのバンパーを装備し、パワーステアリングがついてピカピカの四駆が町の中にいっぱいいるのだろう、と不思議でした。何にでも、様々な付加価値をぶら下げて高く売りつける風潮にも腹が立っていました。二十年で車の値段は3倍に膨らんでいます。
「欲しい車がない」と思ったとき、思い出したのです。MG、充分に40は過ぎています。むしろ50に近づいていました。近所に、とっても偏った嗜好の自動車屋さんがあります。そこにはどんな古い自動車でも、必ず直してしまう大将がいます。その工場にはトライアンフTR4が時々止まっていました。彼に電話、驚いた事に1957年製MG-Aがあると言いました。排気量1500ml、一番初期型のMG-Aです。
そのMG-Aはメキシコシティーから来たそうです。赤錆だらけの、スクラップで、フェンダーにはメキシコの砂漠の砂が大量に固まって付いていました。彼なら何とかするだろうと思ったのでしょう、その場で契約してしまいました。
しかし、そのMG-Aのレストアが完成するのは18ヶ月後の事でした。ボディーの錆び落ちて無くなってしまった部分など、叩いた鉄板を溶接して作っていくのですから、18ヶ月は無理もありません。革製のシートなどは手縫いです。
さて、わが家にはリキがいました。ランドクルーザーの後部は、トミーとリキが乗っても、充分なスペースがありましたが、MG-Aが来たときランドクルーザーは東南アジアのどこかの国へ行ってしまいました。そして、リキのMG乗務訓練が始まりました。
今の車の窓は、運転者の肩の少し下あたりから開口しています。横方向からの衝突の安全性をとやかく言っている車はもっと高いところに開口部があり、まるで装甲車です。ところが、MGやトライアンフなど、いわゆるライトウェイトスポーツはロウカットウィンドウが一つの売りだったのです。トライアンフTR3など、ほとんどベルトの位置まで開口しています。まるで全身が風の中にいるようでとっても壮快です。そこに、リキが乗る訳です。もし途中で暴れたりしたら、車から飛び出してしまう事もあって当然です。
いちリキにハーネスをつけ、リードを運転席と助手席の間にあるハンドブレーキのレバーに巻き付けました。リキが動こうとすると、リードを引き閉めます。このやり方で、ご近所をぐるぐる回り、お互いに自信ができてからヨットハーバーに向かいました。なんとか4時間、三重県五カ所のヨットハーバーに到着した時、リキも私もくたくたに疲れていました。昔の複葉機に犬を載せて飛んだら、きっと同じくらい疲れたと思います。
さて、にリキ、子供の時からとってもお行儀がよかったので、最初からおとなしくMGに乗る事ができました。一応、ハーネスは付けてありますが、ほとんど引っ張る必要はありません。最初に「座っていなさい」それだけでじっと正座をしていました。だから、安心してヨットハーバーへ向かいました。ところが、高速道路のトンネル、音に驚いたようです。
突然、立ち上がりました。そして、運転している私に抱きついてきたのです。まず、前が見えません。「俺たちに明日はない」の中で運転をしているポールニューマンに女の子が馬乗りになるシーンがあります。車は田舎の道を蛇行していました。状態としては似ていました。しかし、馬乗りになっているのは、スカートを捲し上げた女の子ではなくシェパードで、高速道路の時速100km、トンネルの中です。振り払うとリキを落とす事になります。片手にハンドル、片手に首輪をもって何とかトンネルの外に出ました。二つ目のトンネル、今度は緊張して進入します。ハーネスを締め、リードをハンドブレーキに掛け、「座ってなさい、じっとして、じっと、じっとーーーーーーー」。リキは目を三角にして緊張していましたが、腰を一瞬浮かしただけで、何とか二つ目のトンネルを出ました。確かに、オープンカーでのトンネルの中の騒音はスザマしい音量です。そういえば、いちリキは、車は違いますが何度も旅行をしています。だから、トンネルの音に驚く事はありませんでした。にリキにとってはMGに乗っての五カ所が初めての長距離旅行だったのです。当然、トンネルも初めての経験でした。そのうち、MGの助手席にすっかりなれ、まるでパイプをくわえた、紳士が助手席に座っているような態度で乗っていました。隣を走っているおじさんが、窓をあけ、「様になっているよ」と声をかけてくれました。
さて、さんリキ、子供のときはMGに載せて近所を周りました。しかし、何となく居心地が悪そうです。気がつきました。さんリキは大き過ぎるのです。助手席に座ると、顔がスクリーンの上に出てしまいます。鼻に風があたって、気持ちが悪いのでしょう、首を引っ込めると、ブレーキのたびに鼻をスクリーンにぶつけます。仕方がないので、しばらくは、助手席のシートを外してリキを載せました。それも、しばらくの間だけで、リキはもっと大きくなりました。とうとう、どうしょうもなくなり、リキ用のワゴン車を中古で買うはめになりました。
MGに乗って東京へも行きました。すっかりなれた頃の伊勢自動車道、ガクとMGのパワーが落ちました。実は、自動車屋の大将とは、「近畿圏であれば故障したときは迎えにくる事」と約束のもとにこの車を買ったのです。電話をします。「確かに、近畿圏ですけど、何とかもうちょっと近づけまへんか」と言う事になり、だましだまし、帰路につきます。道路サービスの黄色い自動車が近づいてきて、「煙が出てますよ」。安濃サービスエリアまであと3kmです。「なんとか行けるでしょう」。それから1分あまり後、大音響と黒煙がボンネットを吹き飛ばしました。
思わず、「メーデーメーデー」と無線電話での遭難信号を叫び、高速道路横の斜面を駆け登りました。幸い火災にはならず、MGと私が自動車屋の大将に救助されたのは、8時間後の午前1時でした。エンジンは完全にお釈迦になり、2週間後、同形の中古エンジンがアメリカからFedexに乗ってやってきました。
10年たって、もう一度化粧直しをされた、MGは今もすてきなお婆さんで健在です。来年には60歳です。