今年の浜松での日本胎児治療学会で、胎児治療の始まりの頃の話をしてくれと頼まれました。なぜ私たちのチームが胎児治療を立ち上げる事ができたのかを聞きたいと、学会長の希望です。お医者さま相手に書いている文章なので、難解な部分もあるかもしれませんが、なぜ胎児の診断をしなければならないのか、基本がかかれています。
千葉 喜英
千葉産婦人科 院長
竹村 晃という恩師がいた。研究者と言うより思想家といった方が良いかもしれない。若くして夭逝したので、その強烈とも言える個性を知る人も少なくなった。本人は胎児心拍数の研究で世に認められたにも関わらず、いつまでもお脈拝見ではないだろう、と平気で言ったりする。私に超音波の仕事を与えたにも関わらず、いつまで音にしがみつく、と言われた。光は、インピーダンスは、核磁気共鳴はと世の中で注目を集めそうなものには必ず興味を示す。パルスオキシメーター、体脂肪計、MRIができる以前のはなしである。
阪大病院にICUができたとき、彼が言った、胎児の血圧は、胎児の中心動脈圧は、胎児血の酸素濃度は、pHは、胎児の血液のサンプリングはできなくとも、絨毛間腔の採血ぐらいできるだろう。1978年第1回の産科婦人科ME懇話会が行われた年に彼は亡くなった。 Rodeck の胎児血管内輸血のLancet への論文は1981年だから、竹村 晃は胎児採血の時代は知らない。この胎児ICUの思想が、その後の私を胎児治療へと向かわせることになった。胎児血圧は胎児動脈の血流波形で代用することは後に証明された。胎児の中心静脈圧も胎児の静脈系の血流波形より推計できる。直接誘導の胎児心電図もモニタが可能、胎児の血液からおよそ全ての検査が可能となった。ヒトのICUで行われる多くの検査が胎児に対しても可能となり、ヒトに行うほとんどの治療が、胎児に対しても同じ科学的客観性をもって可能な時代となった。その少し前に、私は国立循環器病センターへ赴任した。国立施設で初めて周産期科という名称を使った。実は周産期科立ち上げに際して当時の小児循環器科からNICUの運営を断られた。仕方がないので、NICU の運営を自分たちで行う事にした。実はこの周産期医療すべての責任を一極に集中させた事が、その後に展開する実験的胎児治療を行いやすくした。つまり、その日の小児科の当直医に遠慮は発生しない。この時期国立循環器病センターには倫理委員会はない。つまり、責任を転嫁させるところは全くなく、全て一つの診療科と医師個人の裁量と責任で胎児治療を行った。責任の検証は全ての症例の科学的発表である。いまの時代、当時と同じ環境を作ることは困難であろうが、実験的治療の責任を自らに課すことと、科学的検証を必ず行うことは可能である。